The History of Self23 and Yasuhiro Oka
[樋田武寛/現代美術評論]
ワルツ・アスファルトの頃[1985年]
1985
年に早稲田大学で前衛団体として過激な活動で知られていたAnticle
Fruits(アンティクル・フルーツ)のパフォーマンス会場に必ず訪れる男がいた。当時、明治大学に在籍していた岡靖洋である。すぐに岡はアンティクル・フルーツの女性パフォーマー、鈴木純(写真)と意気投合し、共同生活を始める。
同時にパフォーマンスグループ「Waltz Asphalt=ワルツ・アスファルト」を結成。鈴木純の過激な活動は写真誌などでも当時ちょっとした話題にもなっていた。岡の担当は美術と音楽。
当時、岡はテクノパンクバンド「Bari Sand」での音楽活動に没頭していたのだが、特に電気楽器の新しい可能性を模索していた。
それはたとえば、「単純なバスドラだけのリズムで人は踊ることができないものか」というような思いから、もっぱらリズムセクションの前衛化を行っていた。しかし、ワルツ・アスファルトは数ヶ月の活動で休止を余儀なくされた。
活動が順調だったことを考えると、休止の理由は現在でもよくわからない。
Anticle Fruits(左から鈴木純、夏川久、笹本良之助)
|
ワルツ・アスファルト/Fred(部分)
声・JUN/曲・OKA
※大変長い演奏で、1分ほどを抽出。カセットMTRでの録音のため音質は悪いです。
|
花田寛との出会い〜カンカン花への道[1986年]
この頃、岡はある興味深い人物と出会う。
京都大学の花田寛(ハナダカン / 写真)との出会いである。
花田はある上場会社の社長の御曹司で、個人資産が数億単位という富豪だった。
しかし、精神を病んでいた花田は、自分の精神的苦境を脱するために様々な演劇や音楽を試行していたが、確実なものとは出会っていなかった。
東京に来ていた時に岡と知り合ったようだ。
花田と岡が酒を飲んだ席のことである。
岡が花田に「金があるんなら、それで人の命や人生をもてあそべるんじゃない? 人の人生そのものを買うこともできるでしょう」と酔った勢いで、もちろん冗談で言った。
しかし、花田はこの言葉を聞き、目から鱗が落ちたという。
「金ってそんなことに使うことができるのか!」という驚きに繋がったらしい。
3カ月後、花田は地下に潜る。
京都大学も中退し、すべての自分の痕跡を消した。
これが後の実態のわからない芸術行動である「花活動」への布石となる。
落選した地方議員に500万円のギャラでストリップをさせたり、銀行員にオンライン詐欺を勧める行程を隠し撮りし、
その証拠テープを舞台上でその銀行員に見せる、といった、多くの人々を翻弄しつつも人間の本質を探る活動を続けたハナダの原点は岡の酔っぱらいの戯言だった。
現在もプロジェクト花活動は継続していると当時を知る関係者たちは見ている。
当時のハナダカンの希求は、「芸術の極北は、首謀者の見えない社会騒乱を招くこと。それは革命でも病気でも何でもいいはず。それがハナダにとっての芸術実行者としての夢だった」と岡は述べていた。意味はよくわからない。
「DNAとRNAの解析がもう少しできれば自分の核酸を人に移植するメカニズムがわかるのに、とかハナダはよく言っていたよ」と岡は言う。確かに普通の感覚の人間ではなかったのかもしれない。
Self23結成[1987年]
ハナダカンが地下に潜った後、岡は自分自身の活動母体を求めてSelf Studioを創設。
この頃、岡は明治大学の劇団「実験劇場」に在籍していた役者・吉村二郎と知り合う。
吉村と岡は、練習的な活動体を結成し、その名称を「Self23 (現在は self23)」とする。
実はこのSelf23という団体は「天ぷら家族」という岡の原案を舞台化して解散するはずだった。
つまり、「天ぷら家族」を一度だけ上演するためだけに作られた団体だった。
結成時のメンバーは役者・パフォーマーが、吉村二郎、南明洋などで、スタッフには小説家の引間徹、ミュージシャン&漫画家の友沢ミミヨ、コンピュータプログラマーの相原収蔵、造形美術家の利根川才子など。
1987年。
Self23による「天ぷら家族」を発表。
暴力と暴力と暴力。そして、弛緩した笑いの連続。
途中、舞台を走らせていたバイクが横転し、ガソリンが漏れだした後に爆破があり、観客もろとも爆死するやもしれない状況はあったが、何とか役者側の負傷者だけで済み、公演は成功する。
一度だけの公演のつもりだったが、この成功に気を良くした岡は次の公演の構想を練り始める。 それは「舞台空間を鉄パイプで埋めて、その中で激しいアクション演劇をしてもらう」というものだった。
どういうことかというと、役者は「演技すればするほど怪我をする」という仕組みだ。
役者からの猛反対などもあったが、岡自身も役者で出演するということになり、すべての人間が危険と隣り合わせの舞台の準備は進められた。当時の観念で「なんとなく危険」というものが次々と集められた。チェーンソー、火炎放射器、各種ナイフ……。もうなんでもかんでも集めて、舞台で使うことにした。
結果、奇跡的に公演での重傷者は出なかった。
この公演を見た観客たちの中から、10名ほどの人々がSelf23に加入を希望し、組織の数は肥大していった。
この肥大は1992年まで続き、2人だったSelf23は途中50人規模のスタッフを抱えることにもなった。
「聖者の異常な愛情」の衝撃[1988年]
翌年には、田端の倉庫劇場die pratzeにトラック5台分のガレキと鉄柱を搬入し、「聖者の異常な愛情」を上演。前回公演をはるかに上回る壮絶なガレキの舞台で役者たちは激しく動いた。
今回は奇跡は起こらなかった。
多くの役者たちが負傷し、また観客にも被害は及んだ。
舞台に飛び散る血と肉片。
観客席から沸き起こる悲鳴。
舞台は阿鼻叫喚の地獄と化した。
この公演は当時、週刊誌などでも非難の対象となり、本公演で重傷を負った役者・立花志宗の「ベトナム戦争のブービートラップに発想を得て舞台装置を作りました。公演の目的は本気で殺し合うことです」という発言は論争を巻き起こす。
また、劇場を破壊されたdie pratzeとも深刻な対立を招いた。
岡はチラシを発行し、公式に謝罪。また、劇場を破壊されたdie pratzeとも後に和解した。
俗悪路線への転換〜宇宙人の春[1989年]
スタッフの誰かが岡に言った。
「このままじゃ誰か死んじゃいますよ」
同年12月、岡は暴力をやめた。
解体作業員が女装して心中していくという内容の「タキオさんちの割礼」。 内容と舞台美術のグロテスクさがこの頃から顕著になる。
1989
年5月に行った「宇宙人の春」では、「殺人とその状況」だけを執拗に描写するために、死体の造形に数ヶ月を費やし、また大量の血液を用意し徹底的な残虐の再現を行うという、
やはり大変気持ちの悪い内容の公演となった。200リットルの血液が舞台から流れ出て観客席にも流出し客席から逃げ出す人が多かった。
特に若い女性などでは上演中に気分を悪くして退出する人が続出。
聞くと、「おもしろいんだけど、気持ち悪くて見ていられなかった」と一様に答えたという。
1990年に入ると、舞台規模が一気に大きくなる。
1990年、野外に広大な一大廃虚を築いた「セブンティーン」。
東京国際演劇祭へ招聘された、浅草の不使用ビルを解体し直しておこなった「ロシヤの蛮人」。
1992年にはこの頃知り合ったマレーシア人美術家アーサー・シンの協力により大学のホールを建設し直すという大がかりな規模の「鬼畜御殿」を敢行。
病の時[1993年]
1993年、岡が病に倒れる。
もともと神経症(パニック障害に近い)を10年以上患っていた岡だが、それは薬でなんとかなる。
しかし、この年の病気はそういうものではなかったようだ。
今でも岡は病気の実相を語らない。だから、何の病気かはわからない。
しかし、岡によると、臓器の何かが足りなくなっている状態であるらしい。それと正体不明の恒常的な血液の炎症により、高熱を発することが多かったという。
また、1996年から1年ほど日本を離れていたらしい。
主に中央アジアと東ヨーロッパのあたりに滞在していたというが、真偽は誰にもわからない。
というのも、この頃の岡はふだんの生活でほとんど人と交わることをやめていた。
誰とも会わず連絡も取らず(当時は携帯なんてものもなかったので、こういうことは簡単にできた)、プライベートで何をしていたのかということに関しては、1993年〜1998年頃までは誰にもわからないのである。
ただ、85年にグループを結成していた鈴木純と一緒だったというのは間違いないらしい。
(Anticle
Fruitsはすでに解散して、鈴木も活動はすでにやめていたようだ)
1995年にタイのバンコクで岡と会ったという牟田家譲氏によると(牟田家氏は鈴木純を知らない)、岡は緑色のショートヘアの小柄の日本人の女性と一緒で、
「この子とずっと一緒なんですよ。これから一緒にチェンマイに行く」と言っていたらしい。女性は名乗らなかったそうだが、緑色のショートヘアで小柄というと、どうしても鈴木純の名前が出てくる。
しかし、一方で、96年頃にポーランドで岡と会った吉田宗達氏によると、岡は背の高い日本人女性と一緒だったが、吉田氏は彼女から「古河」と紹介を受けたという。古河といえば、85年のワルツ・アスファルトの解散にも関わっていたといわれる女性だ。
岡と鈴木純、そしてLandie Patayaの古河順子の奇妙な三角関係はもしかしたら85年からこの頃まで続いていたのかも知れない。
復活と岡の死亡説[1999年〜]
1999年に岡は復活する。
この頃の岡は弾けたように遊び回っていた。
1999年度にdie pratzeのフェスティバルに参加という形で「人間サイズ」を上演。
「虚体クラブ」(1999年)、
「スーサイド・パーク」を上演した。
2003年に「Down of the Dead/死者の夜明け」を上演。
Self23の公式記録ではこれが最後の公演となる。
2005年に主催の岡は再び重い病に冒され、死亡説が流れたが、2006年現在はまだ生きている。
最近では言葉も忘れてしまったという話もあり、再度の公演があるかどうかは微妙だ。
Self23 Topに戻る
|